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戦後80年の記憶をたどって

 現在、ロシアとウクライナでは戦争が続いていますが、約80年前の日本もまた、戦争の時代を経験しました。

 当時、ここ砂川村(現在の立川市周辺)でも空襲が繰り返され、大きな被害を受けました。けれども、その戦争の恐ろしさや人々の記憶は、年月とともに少しずつ薄れつつあります。

 立川教育振興会では、戦争を知らない世代にもその記憶を伝えていくため、2022年に当時の理事長・中野隆右さん(故人)と、現副理事長・豊泉喜一さんにお話を伺い、会報誌『教育立川』に掲載しました。


 戦後80年という節目の年にあたる今、このページにもその内容を再掲載いたします。



――日本で戦争が始まったころの立川の様子

 

(豊泉)

 私は昭和12年に小学校に入学、その年の7月7日に中国との戦争(日中戦争、当時支那事変)が始まりました。それから4年後の昭和16年12月8日には太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まりました。今ではこの二つの戦争を経験した人はもう大分少なくなりました。

 

 小学校の高学年5~6年生になると体育の授業には、男の子は木刀で藁人形を打ったり、女の子は木製の薙刀(なぎなた)の練習をしました。小学校高等科を卒業した青年たちは、引き続き青年学校に入り、夜、勉強や軍事訓練をしました。その訓練に使う鉄砲が、廊下の壁にずらりとかけてありました。


 その軍事訓練の成果を小学校の運動会会場で、紅白に分かれて空砲をバンバン撃って披露しました。当時の子どもにはそれがとてもかっこいいと見えたものです。

 

 当時も小学校は6年生までが義務教育で、その後2年間高等科があり、中学(旧制5年)に行く人はクラスで4~5人ほどで、大部分の人は高等科に進み、高等科2年が終わると(14歳~15歳)みんな働いていました。

 

 当時は生活が苦しい家の子は、義務教育が終わらない子どもでも、子守(ベビーシッター)、小僧といって、他所の家で働き、一年間わずかな給料で、夏冬着るものを着せてもらい、食べさせてもらう代わりに、その家の子守や家業の手伝いをする仕事をしていました。


 子守をする子は、髪の毛がおんぶした赤ちゃんの顔に当たらないように、手ぬぐいで髪の毛を後ろから前にしばっていました。冬などは防寒用に「ねんねこ半纏(はんてん)」をかけていましたので、その姿が「ねんねこ半纏」が歩いているようでした。

 

 夕方暗くなって家に帰ると「まだ夕飯の支度で忙しいから帰ってくるんじゃない」と叱られ、子守の子たちが暗い五日市街道を、行ったり来たりしている姿を今でも思い出します。

私は8人兄弟で、母親は畑仕事が忙しかったので、長男の私は妹や弟をおんぶしたり、ずいぶん子守をしました。

 

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 昭和16年、戦時教育が強化され、小学校は国民学校に変わって、この時高等科も義務教育になりました。戦争が拡大し、男の人は戦争に行き、人手が足りなくなり、小学生も農家へ草むしりなど勤労奉仕に行きました。私の同級生たちも高等科2年(現中学2年)になった時、学徒動員され、学校に行かず陸軍航空工廠(こうしょう)で、飛行機の部品作りをさせられ授業はありませんでした。


 私は旧制中学に行きましたが、八王子にあった陸軍用の味噌を作る工場に動員され、勉強はせず毎日味噌を作っていました。その工場も8月2日夜に八王子が空襲を受け全焼してしまいました。



――体験した戦争で印象に残っていること

 

(中野)

 昭和20年4月24日砂川国民学校(現八小)は、B29の爆撃で先生が3人亡くなっています。その内の一人は、4月の新学期に着任して「よろしくお願いします」と挨拶してから一か月も経たないうちに亡くなってしまいました。

 

(豊泉)

 この頃は毎日のように空襲があって、その都度、子どもたちは家に帰されていました。この日も空襲警報が出て子どもたちは家に帰っていたので、学校で亡くなった子どもはいませんでしたが、家に帰ってから亡くなった子どもが何人かいます。



――体験した戦争で記憶に残っていること「体当たり、B29の墜落」

 

(豊泉)

 当時、空襲に来たB29爆撃機は「空の要塞」と言われ、攻撃しても容易に撃墜できないため、しばしば日本の戦闘機が体当たりをしました。私は砂川上空で高山少尉がB29に体当たりしたのを目撃しました。体当たりされたB29は、砂川の東隣、現国分寺市の野中の畑に墜落、乗組員11名は全員死亡しました。体当たりした高山少尉は落下傘で砂川九番に無事降下し、この後も2回体当たりを敢行し、3回目にはついに戦死されたそうです。


 また別のB29が、わが軍の高射砲により撃墜され、機体が柏町の現国立音大の校舎付近に墜落して炎上、乗組員全員が死亡、機体は焼けただれ、墜落のショックで手足の取れた米兵の遺体が散乱しているのを見ました。機体が落ちたのは玉川上水の北側でしたが、尾翼部分は玉川上水の南側、私の家から1キロほど北の畑に落ちました。尾翼部分は焼けなかったので、そこにいた乗組員は遺体に損傷もなく亡くなっていました。私がアメリカ人を見たのはこれが初めてです。立川市内に墜落したB29はこれ一機だけです。乗組員は11名で遺体は砂川三番の流泉寺に埋葬されました。


墜落するB29と三式陸軍戦闘機画(中野さん所蔵)
墜落するB29と三式陸軍戦闘機画(中野さん所蔵)


(豊泉)

 昭和20年(1945年)戦争も終わり近くなると、B29爆撃機や、P51戦闘機などの空襲が頻繁にあっても、それを迎え撃つ飛行機が無くなり、低空から機銃掃射などを受けるようになってきました。


 立川は飛行場を中心に立川飛行機をはじめ、たくさんの軍需工場があったので、爆撃の目標にされ再三空襲を受けました。しかし今考えてみると当時の立川市内より、砂川村の方が被害が多く、意外にも飛行場や立川飛行機の被害が少なかったように思います。

 

その代わり、砂川の北側にあった日立製作所のエンジン工場は再三攻撃され完全に破壊されました。それは立川飛行機で機体を作ってもエンジンがなければ飛べないので、エンジン工場がやられたのではないかと思います。

1945年4月24日の爆撃の様子:日立製作所エンジン工場(写真左上)、砂川国民学校(写真中央)
1945年4月24日の爆撃の様子:日立製作所エンジン工場(写真左上)、砂川国民学校(写真中央)

 

 ――戦争が終わった時について


(豊泉)

 今では天皇陛下のお言葉は様々な機会に聞くことがありますが、当時天皇は神であり、一般国民が天皇陛下の声を直接聞くことなど全くありませんでした。

 昭和20年8月15日、天皇陛下が初めて全国民に向けて戦争終結の「玉音放送」を行い、一般国民は初めて天皇陛下の声を聴きました。昭和天皇の声は甲高い声で、言葉使いも普通の言葉ではなかったので、内容はサッパリわかりませんでしたが、戦争をやめる、ということはわかり、「あーこれで空襲が無くなる」と思いました。

 その日から空襲はピタリと止まり、それまでは昼夜を問わず、空襲警報のサイレンが鳴りわたり、その都度、防空壕に逃げ込んでいました。そして夜は光が外に漏れないように、電灯に黒い布をかけていましたが、そんなことをしなくてもよくなりました。


(中野)

 放送があった日はいい天気で、すごく暑かったことを覚えています。


(豊泉)

 天皇陛下の戦争をやめるという玉音放送を阻止するため陸軍の一部が録音機を取りに行ったという動きがあったようです。


(中野)

 戦争が終わった時、私は小学校2年生で、それまで軍国主義や、鬼畜米英などと言っていた先生方が、終戦後は民主主義教育に180度コロリと変わって、それまでの教育は一体何だったのかと思いました。



――閑話休題――

 

 戦争が終わって米軍が進駐して来ると、戦争中とは一変してそれまで見たこともないような様々な飲み物、食べ物をはじめ、豊かな物資に驚嘆し、かつて鬼畜と言っていたアメリカ風の生活が急速に広がっていきました。


 当時、豊泉さんの家には米軍の残飯が豚の飼料として毎日運ばれてきて、その中にバター、チーズ、ステーキ、ハム、マカロニなどの他、コーラ、オレンジジュースなど、それまで農村では見たことも食べたこともない食品が残飯として大量に出て来ることに衝撃を受けたとか!



――次世代の子どもたちに伝えたいこと、平和を守るためになすべきことは?


 戦争中「鬼畜米英」といって、アメリカ人は鬼のように恐ろしい人間だと教わり、その鬼を退治するのが正義の戦いだと教え込まれていました。戦争というのは、平和な時は普通の市民が、互いに憎しみ合い、殺傷したり残酷なことをしたり、多くの人を不幸に陥れ人間を狂わせることを私は体験してきました。


 今のロシアとウクライナの戦争を見て、改めて戦争の恐ろしさを実感しました。


 日本は明治元年(1868年)から昭和20年(1945年)までに、日清、日露、日中戦争、第二次世界大戦まで、77年間に大きな戦争を4回もしてきました。しかし昭和20年(1945年)以降、今日まで77年間は戦争のない時代を過ごしてきました。この平和な時代をこれからも維持継続して行かねばなりません。


 しかし戦争というのはこうすれば戦争は起きない、してはいけないと言っても、相手が一方的に攻め込んでくる場合もあるかもしれません。現実には戦争が起こらないという法則はないと思います。そのためにも常に平和に対する努力を怠ってはいけないと思います。




●当時の小学生の服装は?

 

 戦前の砂川は純農村で95%ほどが農家でした。当時洋服はまだ普及していなかったので、学校には着物で通学していました。その頃は水道や洗濯機はなく、洗濯は砂川用水か井戸水を使って手で洗い、子どもの数も多かったので洗濯は母親の苦労の種でした。

 

 その頃、西砂川小学校(現九小)の校長をしていた小安伝先生が、皆が同じ着物を着ていれば、着るもので貧富の差も気にならない、その上、汚れも目立たないとして、濃紺無地の着物の校服(写真参照)を制定して着用させ、それを砂川小学校(現八小)でも採用しました。その頃、砂川の小学生は、全員が黒い校服を着ていたので、周囲の村では砂川の小学校をカラスの学校と言っていました。男の子は各種記念日と卒業式には着物の上に袴をはいて参加しました。


 豊泉さんが小学校を卒業した昭和18年までは卒業記念写真はほぼ全員が着物の制服で写っているそうですが、その頃から洋服が普及し始め翌19年には男の子は全員洋服になった

そうです。



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●戦後の校舎

 

 爆撃で破壊されるまで現八小は、五日市街道の北側、現幸町五丁目、現幸小の南付近にあり、現在の栄町、若葉町、幸町、柏町、砂川町の一部の生徒が通学し、昭和4年火災により全焼後、建てられた校舎は、当時北多摩一と言われた自慢の校舎でした。

 

 その校舎が昭和20年4月24日の爆撃により全壊、学ぶ場所の無くなった生徒は各地域の公会堂や、農家の養蚕室などを利用して分散授業を受けていました。8月に戦争が終わり、現在の場所にあった立川飛行機の工員養成施設を利用して授業を始めました。


 始まったばかりの頃は雑木林の中にポツリポツリとバラック小屋のような建物で、雨のひどい時は教室の中で傘をさすようだったそうです。天井はなく窓ガラスもほとんどなく、冬はガラスの代わりに新聞紙やセロファンを貼って寒さをしのいだそうです。


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●学校給食は?

 

 給食はなく、学校に近い子どもは家に帰って食べ、また学校に戻りました。砂川は水田がないため麦ごはんが常食で、豊泉さんは自分で弁当箱に麦ごはんを半分入れ、そこに鰹節をカンナで削ってかけ、その上にご飯を詰めて海苔をのせ、そこに醤油をかけた弁当を毎日自分で作っていたそうです。一年中同じ弁当です。

 

 中野さんも毎日同じ弁当で、いつも真ん中に梅干を入れていたので、アルミの弁当箱のその部分だけ穴が開いたそうです。

 

 

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●子どもの遊び

 

 男の子は三角ベース(今の野球)、コマ回し、メンコ、竹馬乗り。兵隊ごっこは1年生から高等科2年までの子どもが、着物の肩に紙で出来た肩章をつけ、上級生は将校、指揮官になり、竹で作った軍刀を腰に差し、下級生は竹で作った鉄砲を担いで行進したり、その鉄砲で、かんしゃく玉という火薬をバンバン打って戦争のまねごとをしました。


 女の子はお手玉、石けり、縄跳び、キシャゴ(おはじき)遊び、ままごと遊びをしていました。

 

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中野隆右さん(左)と豊泉喜一さん(右)
中野隆右さん(左)と豊泉喜一さん(右)
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NPO法人立川教育振興会

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